411日 説教要旨

礼拝について

 

永井師

 

 主はよみがえられました。イエスは礼拝者を喜んでいます。

 今、私達の心は嵐や砂漠の状態でしょうか?私たちは、「主よ。私たちはここにいます」と言えますか?私たちの心は隠せます。罪や先週の歩みを隠せます。私たちは自信をもてるでしょうか?日々私たちは「イエスは生きている」ことを疑問に思ってはいないでしょうか?

 安息日は人々が休み日であり、神も安息する日です(創世記22)。礼拝には初物を捧げます。出エジプト132には初子を聖別せよとあります。私たちは捧げる物を持って礼拝に来ていますか?献金のみならず自分自身を捧げる準備が出来ているでしょうか?使徒行伝207には週の初めにパンを割くために集まったとあります。

 主を喜ぶことが礼拝することです。目を閉じて誰かを思って下さい。私の両親はまだ救われていないのですが、仮に私の葬儀であっても機会を通して救われるかもしれないと願っています。聖書を5箇所読みます。

一箇所目はルカ1813 取税人は遠く離れて天に目を向けず憐れみを請うています。自分を責める心は誰にもあり、サタンはそれを利用としてつけねらっています。

2箇所目はヨハネ413 サマリアの娼婦は「生ける永遠のいのちの水」のことを聞きました。決して渇くことのない水です。ヨハネ423には霊とまことによることが書かれています。霊とは人間の存在の中心をなすもので、見ることができない、神からのものです。私たちは神の子供として「アバ父よ」と呼びかけます。よそ行きの言葉ではなく、おとうちゃんと身近に感ずる存在として呼びかけるのです。まこととは、神の前に自らをさらけ出すことです。神は光なので私たちは御前にさらけ出されます。心から礼拝を望んでいるか試されます。今こそ礼拝するときです。クリスチャンの子供たちは共に礼拝できることで祝福されていて幸いです。自分たちの信仰も持って欲しいと願っています。礼拝することがマンネリ化しているなら、日曜日だから教会に自動的に行くという態度だからではないでしょうか。そうではなく、神が私たちを待っていることをしり、神の求人広告を見ましょう。神の広告は「神の愛を受け入れなさい、一緒に歩もう」と呼びかけています。私たちは礼拝するものとして生かされています。子供が親に望むことは何でしょうか。@声を掛けてほしい、A常に24時間一緒にいたい、B必要です。それと同様に私たちも、イエスに対してそのように望んでいるのです。先週、一緒にいることを忘れがちであったでしょうか。イエスは私たちを知っています。困難のときも、怒られるときも、いかなる時もイエスは一緒です。

3箇所目としてローマ121-2には「私たちを聖い生きた供え物としなさい」とあります。旧約聖書では、傷ついたもの死んだものは供え物となりません。私たちは生かされています。完全ではないにもかかわらず、受けいれられているのです。「神様」と言ったときに、捧げ物となっているのです。人をさげすむ言葉とか心は除去しなければなりません。マザーテレサは “Come. Let be my life.” と言いました。ノーベル賞を受けても自分が無であることを知り、神が偉大であること告白します。私たちは神への生ける捧げ物として歩む責任があります。

4箇所目に詩篇168-11 礼拝者としての生き方が詠われています。イエスは私の楽しみであり、喜びとする生き方です。イエスが私たちのために死なれたことを意識すべきです。

5箇所目は箴言94-6 イエスの御言葉を食べ続けることです。わきまえのないことを捨てるべきです。「どうせ」とか「だめだ」という言葉を捨てて身軽になるべきです。イエスを信じて歩んでいい。まっすぐに歩みましょう。目を閉じてまっすぐ歩くことはできません。神を前において、歩む必要があります。私たちは生きています。神が生きて欲しいという願いのもと、真の礼拝者として歩むべきです。教会を知らない人たち、来られない人たち、まわりの人々は見ています。私たちが教会へ行く姿を通して、神に従う姿を知ります。その意味で私たちには責任、務めがあります。主は生きています。私たちを通して働き、イエスを模範とする自分自身を見るのです。