2月21日 説教要旨

お父ちゃん!

ローマ8:9-17

西小野 健

 

 アメリカの片田舎にベン・フーパーという人がいました。離婚した母のもと育ち、いつもいじめられていました。教会に行っていましたがいつも遅れ行って、早々に帰っていて教会でも居場所がありませんでした。そんな日々の中、ある日、新任の牧師が来ました。いつものように帰宅しようとすると、出口で挨拶していた牧師に肩に手をかけられ呼び止められました。

「君のことを知っている。君は神様の子供なのだよ。莫大な遺産を継ぐ権利をもっている」

その一言で彼の人生は変わり、その後、彼はテネシー州の知事になりました。神様の言葉は人を変える力を持っています。

 

 ローマ書8章9節から17節までには、「もし」と言う言葉が6回登場します。この言葉は、読者に問いかけていることであり、確認して欲しいことを意味しています。「御霊があなたがたにおられる」問いかけに対して、私たちがそれに属しているのか、属していないかいずれかです。体は罪によって死んでも、御霊によって生きます。

 御霊が私達の内にいるということは、「車」で例えて誰が運転し、何を原動力としているか考えればわかります。神様からの力をもって私達は生きます。自分勝手に生きることとは正反対です。私達は誰かに委ねる必要があります。漠然としたものではなく、人生を捧げる必要があります。聖霊こそが助け主です。

 世の中を見ると、多くの人々は様々な原動力を持っています。仕事、家族のため、などそれらは必ずしも一番大切なものとは言えません。クリスチャンには、原動力が既に豊かに生きるように与えられており、嘆き苦しみ不満の人生ではありません。

 

 私はプロントという店で働いています。キッチンで働いていると様々な食材を必要としています。入れ替わり人が交代で使いますが、引き継ぐときに食材が不足していたり、汚かったりすることがあります。そんなときに愚痴を言ってしまうことがあります。

 しかし、神様は助け主を送って下さいました(ヨハネ14:26,27)。聖霊によって、私の肉にある混乱や愚痴の変わりに御霊の実をもたらします。自分たちの努力によるものではありません。一時的なものはありません。イエスは、私達に教えています。私達の怒りや不満は死に至り、愛や喜びは平安に至ると。

 イエスの姿は今日の聖句にある「祈りの姿」に見ることができます。イエスは神様に祈っていました。私達と同様に肉にあったから祈る必要があったのです。許しや耐えることを祈っていたのだと私は想像します。私達の人生ではどうでしょうか。許せないこと、いらいらすることはないでしょうか。いや、あるはずです。イエスは模範です。イエスのように生きるために救われました。日々、祈るべきです。

 私は3、4年前に恋に苦しみました。神様に祈りました。食事ものどを通らなくなり、体調を崩すほどでした。ある日、私は米を運ぶバイトをしていましたが、その時に今までと違った祈りをしました。今までは導かれるように祈っていたのですが、その時は肉の思いを投げ捨てるような祈りをしたのです。その直後に私には平安が与えられました。涙を流しながら米を運んでいました。夜、私は公園で讃美し神様の心を知りました。自分の思いで祈ると苦々しい。しかし、自分を放棄する祈りによって平安が与えられました。皆さんの中でお一人お一人が祈っていてもかなえられない、平安のない祈りがあるかもしれません。聖霊に歩むなら平安に導かれます。

 

 最後に、聖霊が与えられている特権について話します。かつて、まっぺさんの息子である、マタイが小学校5年生の時に話してくれました。

「天国に行ったら何があるか知っている?天国に行ったらサッカーでも何でも好きなものがあるよ」

私達は何を天国に想像するでしょうか。ローマ8:17。天にあるものに心を置く必要があります。日常の生活に心を煩わせてはなりません。スイッチをイエスに切り替えて日々歩む必要があります。「お父ちゃん」と呼んで歩みます。私は一人になって大声で「お父ちゃん」と呼んで祈ります。私は肉の父は知りませんが、天の父を知っています。私達の一人一人のお父ちゃんであり、そう祈るべきです。「お父ちゃん」と呼べる事、神様の相続権こそが私達に与えられている特権です。